祖母の2つの教え。命がけで闘う党に感動 
山下よしき物語(1)

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写真=1歳のころ。祖父母と生まれたばかりの弟と一緒に

 日本共産党の山下よしき参院議員(53)は、2カ月前に書記局長代行に就任しました。党を代表し、首相への代表質問や、テレビ出演するとともに、参院比例候補として京都を除く近畿1府4県(大阪、兵庫、滋賀、奈良、和歌山)を拠点に全国各地を駆け巡り、5議席絶対確保で党の躍進を勝ちとろうと奮闘しています。山下さんの素顔に迫りました。


 「日米安保条約反対」の国民の声が全国津々浦々にとどろいていた1960年、香川県で生まれました。
 共働き家庭で「おばあちゃん子」として育ち、人を笑わせるのが好きな子どもでした。「よしき、人の役に立つ人間になりなさい」。祖母の口癖でした。青年時代は、人の役に立つ生き方は、どうすればいいのかと日々、真剣に悩みました。
 
 「とにかく何でも挑戦してみよう」。合格した鳥取大学の入学式当日、自治会のクラス委員にすすんで手を上げました。
 その日の夕方、先輩から民青同盟に誘われた山下さんは、共産党と関わりのある組織と知ってパニックになります。祖母の教えにはもう一つ、「共産党にはなったらいかん」とあったからです。
 けれども、「クラス委員は、自ら手を上げたから責任を持ってやらなければ」と学費や学内要求実現のための署名に取り組みます。

 自治会の活動をすればするほど、民青や共産党の先輩たちがよく勉強し、行動していることがわかりました。「自分も勉強したい」と民青に加盟します。
 祖父母の話で「戦争は怖い」と感じていました。民青で学ぶなかで、日本共産党が侵略戦争に反対し、どんな弾圧にも屈せず、命がけでたたかってきたことを知ります。
 「すごい党や。日本共産党に入って信念を貫くことが人の役に立つ生き方になる」と確信し、入党しました。
 実家の仏壇に手を合わせる山下さん。「おばあちゃん。教えの一つは守りました。一つは乗り越えました」

 大学卒業後、大阪かわち市民生協(現在のおおさかパルコープ)で職員として働き始めます。
 できたばかりの市民生協は、ほとんどが代の若い職員で、残業が多く、昼休みも取れない忙しさでした。
 「なんでこんなにしんどいねん」。労働組合で話し合い、実態調査を始めます。ストップウォッチを手に作業を記録し、仕事の改善方法を何度も議論し、ついに昼休みが取れるようになりました。
 駐車場でテニスに興じ、一球打つごとに「これが昼休みかあ」と喜びをかみしめました。

 〝大阪のおばちゃん〟にも鍛えられました。当初「生協運動と言っても、おばちゃんたちにどんな議論ができるんだろうか」と思っていました。
 食品の安全や平和運動に取り組む女性たちの「食べて、しゃべって、勉強して」というパワーを目の当たりにし、「僕は自分の頭の中で考えてただけやった」。このときの経験が現場で学ぶ〝現場主義〟の原点になります。
 配送で「卵、割れてるでー」と笑う女性たちに圧倒されます。配送の卵が割れたり、ひびが入っていたら、1個につき10円を返金していました。
 山下さんは振り返ります。「その10円がうれしいんですよね。そういう〝生活の感覚〟からみると、消費税増税があかんのは当たり前。いまの活動につながる『生活』の大切さを教わりました」   (つづく)