これが昼休みなんや! 
原点 山下よしき(3)

労働者としての原点

 私は鳥取大学を出て、先輩の紹介もあり、大阪のかわち市民生協でお世話になることになりました。

 生協の商品を組合員に、トラックで毎日とどけるのが仕事です。組合員さん、大学出たての私にしたら、まあ地域のおばさまですね。みなさんとの話もできるし、仲間もみんな20歳代で若い。楽しく仕事をさせていただいたんですが、身体はしんどかった。

 荷物が多いコースだと、午前中の配送が終わって事務所に戻るとすでにお昼すぎ。それから午後の分の積込みや入金作業をすると、休憩時間は昼食を一気にかきこむ時間しかないという状況でした。

 「なんでこんなしんどいんや」若い職場には不満が鬱積(うっせき)していました。

 でも、ただ文句をいうだけでは何も変わらない。そこで労働組合として実態調査をやろうじゃないかとなったのです。ストップウォッチ片手に、午前の配送から帰ってくる労働者一人一人の作業を分刻みで記録。全員分をまとめて問題点と改善方法を議論しました。

 結論は、午前の配送から帰ったら入金だけ済ましてすぐ休憩に入ること、午後の分の積込みは午後一時から全員で協力しながらやること、そのために組合員さんに午後の配達時間が少しずれることへの理解を求めること。

 やってみるとどうでしょう。全員見事に昼休みが取れるではありませんか。昼食後時計を見るとまだ三十分も休憩時間がある、当時は信じがたいほど画期的なことでした。せっかくかちとった時間だから有意義にすごそうと、ホームに着けた配送車の前のスペースでテニスに興じたことを覚えています。一球一球打つごとに、ええなあ、これが昼休みなんやなあ、と喜びをかみしめました。

 もう20年近くも前の思い出ばなしですが、これが私の労働者としての原点であり、いまの政治家としての活動の土台となっていると思っています。

阪神淡路大震災が問いかけたもの 
原点 山下よしき(2)

国会活動の原点

95年1月17日午前5時46分

 私が参議院大阪選挙区の候補者として、当選にむけ大阪中を駆けめぐっていた95年1月17日、阪神・淡路大震災がおこりました。

 当日の朝、その日の候補者活動の準備のために大東市の自宅で資料整理していました。突然、経験したことのない激しい揺れ。まだ眠っている妻や子どもたちの上に今にも倒れそうなタンスをとっさに押さえました。

 これはただごとではないと感じた私は、近所の独り暮らしのお年寄りに「大丈夫ですか」と声をかけてまわりましたが、それが死者6400人、負傷者40000人、約45万世帯が被害を受ける地震災害になるとはまだ知りません。

 しかし、阪神・淡路大震災の体験は、国民の政治に対する意識を変え、国への信頼を大きく揺るがすものになりました。そして私の議員活動も大きく左右されることになります。

 私は、木造長屋で屋根瓦が落ちた被害や、壁の崩れ、傾いた住宅など、被害状況を写真にとって大阪府庁へいき、大阪府災害被害対策本部に申し入れを行うことからはじめました。そして大阪で特に被害の大きかった、西淀川や此花、豊中などに精力的にまわりました。液状化で傾く家屋、崩壊した淀川堤防などの実態がどんどん飛び込んできます。神戸などの激震地の様子も連日報道され、支援募金を府下各地でお願いしました。

 街頭で寄せられた募金1000万円を兵庫県庁に届けるため、大阪から9時間かけ西宮、芦屋、神戸の被災地にたって愕然としました。つぶれた家屋、傾くビル、そして学校や公園で毛布にくるまる数10万の人々・・・まさに戦後未曾有の大災害。すべての人の生活が根底から破壊された阪神地域の状況を肌で感じたのです。

 日本共産党は、震災直後から「被災者の生活と住宅の再建に政府は個人補償を」と主張しました。しかし、当時の村山・自社さ政権は「そんなことはできない、日本は私有財産制の国だから個人の生活・住宅再建は自助努力が原則だ」と、冷たく言い放ちました。その結果、道路や港はどんどん復興するのに、被災者の生活の再建は置いてきぼりにされたのです。

●国会議員ってこんなにも無力なのか

 私が参議院議員に当選したのは、震災の半年後の7月。震災からの復興に全力をつくすことは公約でもあり、すすんで災害対策特別委員会のメンバーになりました。 そして、被災者の声を代弁し、くりかえし政府に個人補償を求めました。

 災害救助法23条には「生業資金の給付」という条項があるじゃないか、個人補償は現行法でもできる、現に私有財産制のアメリカでもやっているではないかと主張したけど、村山首相そして、途中から橋本首相に代わっても、政府はまるで壁のように拒否するばかりでした。
 その頃、被災者の方々の集会や現地調査に何度も呼んでいただいたんですが、私は被災地の仮設住宅にいくのが正直こわかった。自力では生活再建できず生きる希望がなかなか見いだせない人たちに、ただ「がんばって下さい」と慰めるだけでは国会議員として役に立ってない。それが自分でもわかるからです。「国会議員ってこんなにも無力なのか」と悔しかった。「政治家は何ができるんだ」と自問自答する毎日でした。

●被災者支援法をつくろう

 転機になったのは「政府がやらないなら自分たちで被災者支援法をつくろう」と被災住民やボランティア、作家の小田実氏など多くの人々と運動を取り組んだことです。これで阪神地域にどんどん行って一緒にやろうと光が見えてきた、ようやく被災者の方に語る言葉ができたんです。

 当時日本共産党の参議院議員は14人。衆議院でもそうですが、予算をともなう法律を提案するには数が足りません。しかも「個人補償を求める」法案をつくろうといっても、政党単位ではどこも協力してもらえない。それじゃあ、超党派の議員有志でやろう、阪神地域・被災地選出議員を中心に働きかけようと、一人ひとりに話をしにいきました。当選間もない若い議員でしたが、ともかく無我夢中。戦後未曾有の大震災を体験した、この時代に国会に身を置くものの歴史的使命という思いが強かったと思います。

 そんなこんなで当時無所属だった田英夫さんに座長役をお願いし、自民党から共産党まで、文字通り超党派の議員による勉強会を立ち上げることができたのです。

 ここからも道は一直線ではありませんでした。なにせ様々な議員の集まりですから意見が一致しているわけではありません。どんな段取りで法案化作業をすすめるか、レールがひかれていたわけでもありません。有志議員それぞれの熱意にも当然温度差があります。「反対はしないがどうせできるはずない」と斜めにかまえる議員もいれば、「市民に任せておけばよい」という議員もいる。逆に突然独自案を発表する議員もいる・・・。バラバラになってしまいそうな局面もありましたが、それを乗り越える一番の力は、やはり被災者の実態でした。1年、2年と時間がたっても仮設住宅から出ることができない人、まちに人が戻らず営業を再開してもゆきづまる商店・・・。「大震災を生き延びた人間が、そのあとでなぜ孤独死しなければならないのか」

被災地から伝わる生の叫びは、私たちを“自助努力では限界がある。政府がやらないなら国会議員がやるしかない”との原点に立ち返らせてくれるのでした。

 市民運動のみなさんともよくケンカをしました。議員による勉強会の進行状況を小田実氏に電話で報告したら、「市民は一生懸命やっているのに、国会議員は何をモタモタやってるんだ」と怒鳴られたこともあります。反対に、私から小田氏に、「市民案の形式にこだわっていたら、作業が複雑になり法案化は間に合わない」と率直に意見したこともあります。それがよかったんだと思います。市民と国会議員が対等な立場で法案づくりにとりくむ、新しいやり方でした。

●市民運動と議員のスクラムが政治を動かす

そうして1997年5月、全壊世帯に最高500万円を支給する私たちの法案が完成。6会派39人の議員有志の賛同を得て、参議院に提案することができたのです。

 「うれしいこれでがんばれます」「希望が見えました」

 さっそく被災地から声が届きました。その後、法案の成立に向けて、市民運動のみなさんと一緒に、東京や被災地での集会やデモなど、世論喚起の活動に精力的にとりくみました。労働組合などによる被災地での住民投票運動や、生協などの署名運動もあり、被災者に公的支援を求める国民世論は急速に高まっていきます。

 これが政府・与党を追いつめ、不十分ながら支援制度(全壊世帯に最高100万円)をつくらせることにつながりました。

 被災地の願いにこたえた制度はまだまだこれからですが、「市民運動と議員のスクラムが政治を動かす」これが私の国会活動の原点です

おばあちゃんの2つの教え 
原点 山下よしき(1)

おばあちゃんの2つの教え

「人の役に立つ人間になれ!」「共産党には近づくな!」

 私は両親が共働きをしておりまして、学校から帰ってきたら祖母に面倒をみてもらった、「おばあちゃん子」でした。

 そのおばあちゃんが、私にたいして、いつも口癖のように教えてくれたことが2つあります。

 1つは、「人の役に立つ人間になれ」。もう1つは、「共産党にはなったらいかん」という教えです。

 この教えは、幼い私の頭にしみ通り、人生を大きく左右したといまでも思っています。共産党は身近にはなかったのですが、人の役に立つ人間にどうしたらなれるのかずっと考えてきました。

 高校時代もそれが大きなテーマでしたが、答えは出ませんでした。ただ、鳥取大学に入るとき、人の役に立つ人間になる生き方、それがどういう生き方かを知るためには、いろんなことをやってみればいいじゃないか。何でも挑戦してみようという目標を持ちました。

 大学に入ると、入学式の当日、先輩がクラスにやってきて、自治会のクラス委員を「だれかやりませんか」とよびかけられました。しかし、だれもやり手がない。「なんでもやってみないとダメだろう」という決意がありましたので、「私やりましょう」と手をあげたんです。

 そうするとその日の夕方、「ちょっと、ちょっと」ということで、クラスにきた先輩が私を誘いました。下宿に連れていって、「君は民青同盟知ってるか」、こう言うんですね。ぼくは全然知りませんでしたが、私と一緒に役員を引き受けたもう1人の彼が「知ってます、共産党の導きを受けるところでしょ」と、こう言うんです。

 それを聞いて私は「おっと! これは共産党の組織か」とパニック!「おばあちゃんからくれぐれも共産党に近寄るなと言われていますから。どうも、さようなら」ということで逃げてかえりました。

 その後も民青に入らないかというお誘いは3回くらい断りましたが、自治会のクラス委員は自分で手をあげてなったわけですから、これは責任を果たさないといけませんので、いろいろやりました。

 自治会のクラス委員をやるなかで、社会のことをいろいろ勉強するわけです。なんで学費がどんどんどんどん上がるんだろう。軍事費はどんどん増えるなかで、教育予算は減っていく。これは、たしかにおかしい。また、自治会として学内でいろんな要求を実現するための署名などの活動もしますが、これはええこっちゃと納得してがんばりました。

 自治会の活動を通じて、民青や共産党の先輩たちが先頭に立って勉強し、行動している姿が見え、その話にも「間違っていないな」と納得、民青同盟にいっぺん入っていろいろ勉強するのもいいかなと思って1年のときに入りました。

 民青同盟というのは、一口でいって学ぶ組織。当時は週に1回の会議の中で勉強会をしていました。私は自分から質問をしてみようとあれこれ疑問をぶつけたんです。いまでも覚えていますが、「先輩たちは自民党の議員のことを悪く言うけれども、うちの田舎では自民党の議員は『先生』と呼ばれていますよ。『先生』といわれる人に悪い人はいないんじゃないですか」という質問をしました。いまから思うとなんという純朴な質問だと思うんですが、その質問に先輩は、自民党の政治家がやっている汚職や腐敗の実態などの姿を教えてくれたと思います。

 自衛隊についても質問しました。私は香川県善通寺の出身で自衛隊の駐屯地があります。小豆島で災害があったら、ヘリコプターがいつもここから救助に行っている。

 「いいことしてるじゃないか、なんで自衛隊あきませんの?」ここでは、自衛隊が全体としてアメリカ軍とどういう活動をしているのか、憲法との関係など、1つひとつ勉強していきました。

 そのなかで私が共産党に対する思いを変えるようになった一番のきっかけは、戦前の歴史を学んだことです。

 戦前の学生がいったいどんな運命をたどったのか。ペンを銃に持ち替えて、天皇の名のもとに戦場にかりだされ、多くの学生たちが帰らなかったわけです。『きけわだつみのこえ』という本のなかに、その無念の思いがずっと書き残されていますが、同世代の学生として胸に響きました。

 なにも学生たちは好きこのんで戦争に行ったわけでない。もっと勉強したかった。学んだことを社会に生かしたかった。「生きて帰る。おれにはまだまだ山ほど人生がある」と書き残してたくさんの人が死んでいった。無念だっただろうな。しかもそれが日本を守る戦争でなく、侵略戦争だったわけですから、たいへんな時代だったのだと思ったのです。

 そしてその侵略戦争に命がけで反対した人たち、先輩たちがいた。それが日本共産党の人たちだったと知ったとき、いろんな弾圧受けたけれどもがんばり通して節を守りぬいた。私はそういう生き方こそ、おばあちゃんが言っていた「人の役に立つ生き方」、信念を貫く生き方だと思いまして「共産党に近づいたらあかん」という教えを乗り越える形で、日本共産党に加わりました。

 いまでも田舎に帰ると仏壇に手を合わせます。線香をあげながら、おばあちゃんに「あなたの教え一つは守りました。一つは乗り越えました」と報告しているんです。