私は両親が共働きをしておりまして、学校から帰ってきたら祖母に面倒をみてもらった、「おばあちゃん子」でした。
そのおばあちゃんが、私にたいして、いつも口癖のように教えてくれたことが2つあります。
1つは、「人の役に立つ人間になれ」。もう1つは、「共産党にはなったらいかん」という教えです。
この教えは、幼い私の頭にしみ通り、人生を大きく左右したといまでも思っています。共産党は身近にはなかったのですが、人の役に立つ人間にどうしたらなれるのかずっと考えてきました。
高校時代もそれが大きなテーマでしたが、答えは出ませんでした。ただ、鳥取大学に入るとき、人の役に立つ人間になる生き方、それがどういう生き方かを知るためには、いろんなことをやってみればいいじゃないか。何でも挑戦してみようという目標を持ちました。
大学に入ると、入学式の当日、先輩がクラスにやってきて、自治会のクラス委員を「だれかやりませんか」とよびかけられました。しかし、だれもやり手がない。「なんでもやってみないとダメだろう」という決意がありましたので、「私やりましょう」と手をあげたんです。
そうするとその日の夕方、「ちょっと、ちょっと」ということで、クラスにきた先輩が私を誘いました。下宿に連れていって、「君は民青同盟知ってるか」、こう言うんですね。ぼくは全然知りませんでしたが、私と一緒に役員を引き受けたもう1人の彼が「知ってます、共産党の導きを受けるところでしょ」と、こう言うんです。
それを聞いて私は「おっと! これは共産党の組織か」とパニック!「おばあちゃんからくれぐれも共産党に近寄るなと言われていますから。どうも、さようなら」ということで逃げてかえりました。
その後も民青に入らないかというお誘いは3回くらい断りましたが、自治会のクラス委員は自分で手をあげてなったわけですから、これは責任を果たさないといけませんので、いろいろやりました。
自治会のクラス委員をやるなかで、社会のことをいろいろ勉強するわけです。なんで学費がどんどんどんどん上がるんだろう。軍事費はどんどん増えるなかで、教育予算は減っていく。これは、たしかにおかしい。また、自治会として学内でいろんな要求を実現するための署名などの活動もしますが、これはええこっちゃと納得してがんばりました。
自治会の活動を通じて、民青や共産党の先輩たちが先頭に立って勉強し、行動している姿が見え、その話にも「間違っていないな」と納得、民青同盟にいっぺん入っていろいろ勉強するのもいいかなと思って1年のときに入りました。
民青同盟というのは、一口でいって学ぶ組織。当時は週に1回の会議の中で勉強会をしていました。私は自分から質問をしてみようとあれこれ疑問をぶつけたんです。いまでも覚えていますが、「先輩たちは自民党の議員のことを悪く言うけれども、うちの田舎では自民党の議員は『先生』と呼ばれていますよ。『先生』といわれる人に悪い人はいないんじゃないですか」という質問をしました。いまから思うとなんという純朴な質問だと思うんですが、その質問に先輩は、自民党の政治家がやっている汚職や腐敗の実態などの姿を教えてくれたと思います。
自衛隊についても質問しました。私は香川県善通寺の出身で自衛隊の駐屯地があります。小豆島で災害があったら、ヘリコプターがいつもここから救助に行っている。
「いいことしてるじゃないか、なんで自衛隊あきませんの?」ここでは、自衛隊が全体としてアメリカ軍とどういう活動をしているのか、憲法との関係など、1つひとつ勉強していきました。
そのなかで私が共産党に対する思いを変えるようになった一番のきっかけは、戦前の歴史を学んだことです。
戦前の学生がいったいどんな運命をたどったのか。ペンを銃に持ち替えて、天皇の名のもとに戦場にかりだされ、多くの学生たちが帰らなかったわけです。『きけわだつみのこえ』という本のなかに、その無念の思いがずっと書き残されていますが、同世代の学生として胸に響きました。
なにも学生たちは好きこのんで戦争に行ったわけでない。もっと勉強したかった。学んだことを社会に生かしたかった。「生きて帰る。おれにはまだまだ山ほど人生がある」と書き残してたくさんの人が死んでいった。無念だっただろうな。しかもそれが日本を守る戦争でなく、侵略戦争だったわけですから、たいへんな時代だったのだと思ったのです。
そしてその侵略戦争に命がけで反対した人たち、先輩たちがいた。それが日本共産党の人たちだったと知ったとき、いろんな弾圧受けたけれどもがんばり通して節を守りぬいた。私はそういう生き方こそ、おばあちゃんが言っていた「人の役に立つ生き方」、信念を貫く生き方だと思いまして「共産党に近づいたらあかん」という教えを乗り越える形で、日本共産党に加わりました。
いまでも田舎に帰ると仏壇に手を合わせます。線香をあげながら、おばあちゃんに「あなたの教え一つは守りました。一つは乗り越えました」と報告しているんです。