1992年参院選で日本共産党の比例候補として活動した山下よしきさんが、95年参院選の大阪選挙区候補として活動しているとき、阪神・淡路大震災に直面しました。山下さんは「被災者生活再建支援法」成立までを経験し、「どんなに壁が厚くとも、国民とスクラムを組んでたたかうなら政治を動かすことができる」ということを痛感しました。
日本共産党は大震災当初から、被災者の生活・住宅再建のために政府として個人補償に全力をあげるよう要求してきましたが、当時の自民・社会・さきがけ連立の村山富市政権は「生活再建は自助自立で」と被災者に背を向け続けていました。道路や港湾が復興する一方で、被災者の生活は置き去りになっていました。
半年後、定数3の大阪選挙区で参院議員に初当選し、災害対策特別委員会に加わります。被災者の声を繰り返し国会へ届けますが、一向に進まない状況にいらだち、「国会議員って、こんなに無力なのか」「政治に何ができるのか」と自問自答する日々でした。
被災地を回るなか、多くの市民と出会います。
「政府がやらないなら、自分たちで被災者支援法をつくろう」。被災者や支援ボランティア、作家の小田実さん(故人)ら市民と始めた運動が次第に世論を動かし始めました。
山下さんは、被災地選出の各会派議員に声をかけ、超党派の議員有志の勉強会を立ち上げました。「今後同じような災害が起こったとき、公的支援がなければ同じ苦しみを味わう人たちを生むことになる。(制度は)この時代に国会に身を置くものの使命だ」の思いが強かったといいます。
「国会議員は何をもたもたやってるんだ」と怒鳴られたことがありますが、小田さんに「よく耐えた」とたたえられます。山下さんが「形にこだわっていたら法案化は間に合わない」と小田さんたちに意見し、議論を進めたことも。
その支援法が98年に成立。改正をくり返し、自然災害による住宅被害に応じて、75万円から300万円まで支援金がでるようになり東日本大震災被災者の支えになっています。「阪神で被災した人たちは、自分たちは一円も受け取らなかったけど、東北の人の役に立っていると話すと、喜んでくれます。これこそ社会の進歩であり、人間の連帯です」
「若さと経験を生かし、21世紀にふさわしい新しい国づくりに大いに挑戦してほしい」と期待を寄せた小田さんは07年7月30日、山下さんの2期目の当選が決まった投票日に亡くなりました。
小田さんや市民との共同を大事にしてきた山下さん。阪神・淡路大震災発生の1月17日は可能な限り神戸に足を運んでいます。
「あったかい人間の連帯を国の政治に」の思いを胸に現場に駆けつけ、「現場の空気」を肌で感じ、ともにたたかう―山下さんの活動は、ずっと市民・国民に支えられています。
(つづく)